Ich habe hunger

あふりかエンジニア、アフリカ向けのB2BのSaaSを開発する

先生の言った「それで本当に幸せになるのか」という問い

この前、大学の先生のところに久しぶりに挨拶をしに行った。


先生には、研究室で大学3年生〜修士1年生までの3年間お世話になったが、この研究室の先生、諸先輩方と同級生・後輩のおかげで、大学院を中退してもなお社会で何とか今までそれほど困らず4年ぐらい社会人をやっている(ように思われる)。大学院を中退したのは逃げでもあったし攻めでもあったので、たかだか後1年行けば修了する修士課程をわざわざ中退してまで選んで踏み出した道を自分がどう築いて築かれて歩んでいるのか、ということを少なくともお世話になった先生には報告する義務があると勝手ながらに思い、折りを見ては先生のところに足を運んでいる。


この前、先生のところに行った時には、アフリカの話をした。具体的な事業の話も。そこで先生は、「インターネットが広がって情報を得る環境が出来ていく流れに逆行することはもはやできないけど、それは果たして人々を幸せにするのか」と発して黙った。多分、アフリカという我々よりもインターネットを手にするのが遅かったところに徐々に、急速に広がっていくということを想像してのことだと思うが、結局のところ思考としては人間に帰って来たんだろう。


これは非常に面白い問いでずっと考え続けている。多分どこかで散々話されているんだろうけども。それを探して見て理解するのは簡単なのかもしれないけど、研究室で得た問いは自分で納得できるまで考えないといけない気がする。


インターネットがあることで、情報やお金に対して物理的な制約がなくなっていく感じになっていること。先の問いで話していたのは、今まで得なかった情報を得ることで逆に不幸になる人も居るのではないか、ということとお金の流れなども広い商圏に飲まれることで今まで悩まなくてよかったことに悩んだり、成り立たなくなる商売や生活できない人が出てくるのでは、ということ。これは享受できるものと比べると全体の中では小さなものかもしれないけど、それを無視は出来ないかも。


インターネットがあること(世界)で何が起こるかというと、今までなかった情報に触れられることができて、その結果今まで見えてた選択肢以外も見えるし、今まで見えていた結果以外も見えるようになる。


例えば、田舎で就職して、そのまま近所のじいさんばあさんのようになっていく、というようなものしか見えてなかったものが、実は東京では○○で、じいちゃんばあちゃんになっても○○をしている人生のようなものにアクセスが出来てインプットできてしまうということ。こういう話は、本の中では今までもあったとは思うんだけど、普通の人が発信できるメディアがあることで"普通の人"の話としてインプットされてしまう。その結果、空想や消費する物語ではなく、現実味を帯びた話として認識をしてしまう人が居て、その結果その人の中では選択肢が増えてしまう。さらに、その人はその選択肢に惹かれながらも一歩を踏み出すことが出来なく、隣の誰々さんが踏み出したりして、さらに幸せそうな話を聞いてしまったら、もう大変。嫉妬の嵐や自分の中でモヤモヤとしたものが生まれてしまう。なんでその一歩を踏み出せなかったのか。例えばここでいう一歩が東京に行って働くことだとして、その一歩で変わってしまう自分の人生に対して責任を持つ覚悟が出来なかったから。東京に行っても働き口がなかったらどうしよう、結婚は出来るのか、一生東京で住むのか、将来はどうなってしまうのか。人によって色んなハードルはあるし覚悟の一言では言い表せないかもしれないが、何かが一歩を踏み出させなかった。インターネットの話じゃなくなってしまった。


こういう風に考えた時に、じゃあどうやったら一歩を踏み出せたのか、というと想定した"自分の人生に対する責任"というのが小さくなれば良いのかもしれない、と思う。つまり、何かを選択はするんだけどそれによって変わる環境の変化というのは大したことない、と思えるような個人の環境、もしくは社会であれば良いのかもしれない。個人の環境で言うと、恵まれた友人やコネや人脈もそうだし、持ち家や資産もそうだし、もしくは鋼のメンタルみたいなのも個人の環境かもしれない。社会としては、生きるコストが下がる、というのがすごく良いのかもしれなくて、食費が全然かからないとか駆け込み寺じゃないけど住居は何とか確保できるとか。
この辺は、個人的には野菜工場とか農業や畜産業のIT化や輸送や調理みたいなところもどんどんIT化されていくことでコストが落ちてくれると助かるな、と期待してる。うちの大学も学産学消とか言って野菜工場で作った野菜でファーストフードと提携したりしてるし、この辺の技術はどんどん進むだろうし後は法律で企業が参入しやすくなっていってほしい。


この先には人間が働かなくて良い世界が来るのではないかと思っている、というか思いたい。全ての人間ではないにせよ、働かなくても、もしくは少ない労働量で衣食住をある程度満たされる未来は待っていると思う。今の世界はそこに向かうための過渡期であって、今見えてるような世界でそのまま進んでいくのではないだろう。そうした時にぼーっとしているのか、それとも何かをするのか。


僕らは、東アフリカで流通に特化したソフトウェアを作っていて使ってもらっている。僕らが社会に大きくインパクトを与える頃には、色んな人がいつでも色んなものを手に取れるようになるだろうし、もっとモノの行き来というのも進むだろうし、その頃には一部をドローンでキオスクまで運んでいるかもしれない。そうこうしているうちに、発注担当はAIになるかもしれないし、お金もだいたいM-PESAでデジタルでやり取りをしているかもしれない。そういった時代が来た時には、僕らはどんどんと人間がやって来たことをピンポイントにITに置き換えていくことが出来るだろう。もしかしたら、知らず知らずにそういう準備をしているのが僕らの事業なのかもしれない。


「それで本当に幸せになるのか」


改めてこの問いに立ち戻ると、受発注をしていた人は職をなくしてしまうかもしれない。今まで100人雇っていたところを60人で同じことが出来るようになってしまうかもしれない。それでもなお、僕らが現地に行き、色んな事業者と話し、ソフトウェアを開発し、効率化して流通というインフラに関わっていくのか、と考えると、いつか来る未来のために現在を加速させているのかな、と思えるようになった。もちろん、僕ら以外の世界が大きく変わることが前提だし僕らが遅過ぎることもあるだろうけど。そうして、必要最低限以上働かなくて良くなったら好きなことをして生きていければ良いな、と思う。


「それで本当に幸せになるのか」


「分からないけど、加速させて早く到達したい未来はある」

と今は答えることができそう。
5秒後にはまた新しい問いが出て来てまた頭を悩ませることになりそうだけども。